(011) 幸・不幸は小さく刻んで受け止める

『幸・不幸というか、それを長い周期で考えないようにしている。
辛いこともそんなにずっと続くものじゃない。良いことも長く続くもんじゃないぞと考える。』

この話は、歳を取り体も弱り、もう自分の人生には何も無い後は死を待つだけと、沈み込んでいる老人に向けて書かれた *吉本隆明氏 の一文である。
若い頃は、幸・不幸というものを強く感じるので、これを長い周期で捉えてしまい、長い間思い悩むことも多いのではないかと思われる。

この話は老人にかぎらず、一般の生活人にとっても参考にしてよいのではないだろうか。
(意識的に、幸・不幸を感じる周期を小刻みに捉える)ことで、先へ進んで行けるような気がする。

できることなら「幸」の感覚を長く保持して「不幸」の感覚を短くしたいところだが、人間の意識はどうもそんなにうまくはできていないようだ。

「不幸」の感覚を短く刻もうとすれば、同時に「幸」も短く刻まざるをえないようだ。 振り返って思い起こしてみるに、幸・不幸の気持ちというのは日常的に頻繁にくり返さてているのであろう。
*吉本隆明: (1924年 ~ 2012年)日本の思想家、詩人、評論家。
(017)カミーユ・ピサロ

(010) 学校に通わなくても勉強ができる時代

オープンエデュケーション(Open Education)とは、高等教育機関が講義や教材などインターネットを使って配信することにより、大学で生まれた知を社会に還元する世界的な教育活動を指す。

世界のどこにいてもインターネットで学ぶことができるオープンエデュケーションは、Webの進化と教育の進化がもたらした「学びと教えをめぐる素晴らしいムーブメント」言われる。

オープンエデュケーションの進化により、世界のどこにいようと 「世界最先端の知」 に触れられるようになった。その一つとして、本年度より我が国においても MOOC(ムーク)の授業が開始された。

MOOC(Massive Open Online Course)とは、巨大でオープンなオンラインの授業という意味であり、インターネット上で誰もが無料で受講できる大規模な開かれた講義形態である。

参考日本における MOOC はgaccoという名称のプラットホームがWebサイト上に提供されている。  インターネットのある生活が当たり前となっている現在、これまで大学や資格取得の各種学校に通うことが必要だった(学ぶ)という行為が、気軽にインターネット上で習得できる環境が徐々に整ってきている。

MOOC は、今後有力なオープンエデュケーションとして発展していくのではないかと考えられる。
これが一般社会に浸透してくれば、学校に行かなくても一流の大学教育を受講することが可能となる。
その内 MOOC の受講により大学と同等の資格も与えられるようになり、その資格が社会に通用するようになるかもしれない。
今後の日本は、少子化により大学の存続も危ぶまれている。否応なしに大学教育の抜本的見直しを迫られるのではないだろうか。
カミーユ・ピサロ

カミーユ・ピサロ

(009) 苦悩を乗り越える一つの方策

人は生涯の内に、大なり小なり何らかの苦悩を味わうものである。肉体的苦悩・精神的苦悩とさまざまである。その時人それぞれに、意識しようとしまいとそれを乗り越える方策を考えるのであろう。
その方策の一つとして、ある人から次のような話を聞いたことがある。

『(今受けている私の苦悩は、他の人は味わうことはできない。この苦悩を味わうということは、人よりも多くの経験をすることであり、私の一生はそれだけ豊かなものである。)と、意識的に正面からそれを受け入れることによって乗り越える。』

なかなか難しいことかもしれないが、苦悩そのものを客観視することで自己の苦痛を和らげる、という一面を持っているのではないだろうか。
ややニヒリスティックな印象も受けるが、これに対して他人がどうのこうのという資格はないであろう。

誰にとっても苦悩からは早く抜け出したいのが人情である。

カミーユ・ピサロ

カミーユ・ピサロ

(008) 人の噂も75日、ネットの噂は7.5時間?

【人の噂も七十五日】 
「世間の噂も一時のことで、しばらくすれば忘れられてしまう。」と言うことだが、良い噂のことよりも、どちらかと言うと悪い噂の時によく使われる諺である。

なぜ「七十五日」なのかの理由には所説あるが、もっとも一般的で有力な説として以下の説が挙げられる。 昔は、春夏秋冬の他に土用の丑の日を含めた五季節という考え方があり、一年の365日を5で割ると73になる。
また、昔の暦は春夏秋冬の期間が年によって70~75日あるという説。 これらのことから、七十五日はひとつの季節を表す説とされ、季節が過ぎる頃には人の噂も忘れられているということ。
 
【故事ことわざ辞典】より

先日ある悩み相談の記事で「人の噂話がとても気になって仕方がない」という記事を見かけた。人は自分に対する噂を耳にすると、大なり小なり気にするものである。中には「人が何と言おうが私はまったく気にしない。」などという人もいるが、得てしてそんなことをいう人に限って、氣にしている人がいる。

人間の生活は人とのかかわり合いの中で成り立っているので、他人の話を気にするのは当たり前のことである。 少々スキャンダラス的な噂であってもしばらくすれば忘れ去られるものである。特にネット上の噂は忘れ去られるのが早く、勝手な解釈ではあるが 「ネットの噂は7.5時間」 とも言えるように思われる。

ということで、あまり人の噂をいつまでも気にする必要はない。楽天的に考えたほうが良い。 人はみなそれぞれに自分のことで忙しいので、いつまでも他人の事ばかり気にしている訳にはいかないものである。

とは言うものの、一度ネット上に流れたものは永遠に消えることはない。いつ何時その噂話が炎上しないとも限らない。これがネットの悩ましいところである。

カミーユ・ピサロ

カミーユ・ピサロ

(007) 読書は多読が良いわけではない

世に、多読の方法とか速読術などといった本が結構売れているようである。
しかし、その効果があったという話はあまり聞かない。また「私は月に100冊の本を読む、いや200冊読む。」などど言った多読を自慢する人もいる。
私にはとてもそのような芸当はできない。

ショウペンハウエルは多読の害について、このようなことを言っている。『読書は他人にモノを考えてもらうことであり、多読によりしだいに自分ではモノを考える力が無くなって行く。』すべての書籍がそうだと言う訳にはいかないが、真理を突いていると思う。

しかし、濫読で世の中の様々の有り様(ありよう)や、考え方を浅く広く知ることができる。これは濫読の効用である。しかし、ちゃんと理解しながら、なるべく沢山の本を読みたいと思うのは人情でもある。

本のジャンルにもよるが、このような方法も考えても良いのではないだろうか。 それは、(目次と序文と作者のあとがき)を先に読みその本の概要をイメーシしてから読み始める、というもの。

全くの「無」から入るよりもスムーズに入っていけるのではないだろうか。既にこのような方法で本を読んでいる人もいるであろうし、またこれを邪道という人もいるかもしれないが、一つの読書方法だと思う。  

さらに本の解釈に行き詰まったとき、ネット上でこの本についての他人の解釈を参考にする、などということもあっても良いのではないだろうか。

カミーユ・ピサロ

カミーユ・ピサロ

(006) 女性の社会進出を欧米社会と同様に考えてはならない

今 アベノミクスにおいて、女性の管理職登用が推進されようとしている。女性の能力をフルに社会に活かしてもらうことは大いに結構なことである。しかし、歴史的成り立ちの違う欧米社会と同様な感覚でこれを推進しようと言うのであれば、それは少し違うのではなかろうか。

ヨーロッパも日本も、歴史的には中世の頃から「個」の確立が進展してきたという歴史がある。 ヨーロッパにおいては、長きに亘り、民族間・国家間・宗教観の違いにおいて激しい対立がくり返された。
そのため、理性を働かせて共同体精神を培いながら、「個」の自由が確立されて行った。

言わば、「個」を中心に据えた共同体社会が確立されていった。それに比べて日本の場合は、多民族社会ではなく、島国ということもあり、ヨーロッパに見るような社会的対立はなく、平和で自由な社会を構成するために、「和」を中心に据えた「個」の確立と言った形が進み、現在に至っている。


欧米社会は「個」が先に立ち、日本は「和」が先に立つ社会である。どちらが「是」であるということはない。 明治維新を迎えてヨーロッパの科学と制度を取り入れることとなったが、ヨーロッパのような個人主義は浸透しないまま「和」を重んじる社会が形成されて行った。

上記のように欧米的な個人主義が徹底した社会では、男性と同様の女性の社会進出も、日本に比べれば社会的同意が得られやすく、容易であろうと考えられる。
日本社会のように「和」にもとづいて形成された社会では、社会全体の同意が得られるには、男女ともにこれに対する意識の涵養が必要であり、時間がかかるのではないだろうか。

何事も頭では分かっていても、それに気持ちが付いて行くには時間がかかるものである。また、職場での男女平等を確保する目的で「男女雇用機会均等法」が1986年に施行されて30年になんなんとするが、女性の管理職登用は遅々として進まなかった。

激しくしのぎを削る管理職社会の中で、この中に身をおく覚悟を持つことへの女性自身の意識の遅れもあるのではなかろうか。無理をして女性管理職を登用した結果、その周囲に負担がかかってくるようでは逆効果ということになってしまう。

欧米社会と同じような女性の社会進出を念頭に置いているのであれば、今後上手く事が運ぶのかどうかを危惧してしまう。ましてや企業に対して、女性管理職登用の数値目標まで掲げるのは、杓子定規的な考え方のように思われる。

社会的承認が得られないまま事を急いで、逆に企業の生産性が低下するようなことがあってはならない。人間関係を中心に築き上げられてきた日本企業の「和」を中心とした組織に、無理強いした形で女性管理職を登用するのは、組織に弊害を及ぼすことが危惧される。

これが失敗したら益々女性の管理職登用は遠のいてしまう。 そして女性管理職が向いている職種と向いていない職種があるだろうから、この点も十分考える必要がある。 ただ女性管理職の頭数だけ揃えても、経済発展には繋がらない。その下準備が大切ではなかろうか。

また 男性の育児も大切ではあるが、思うに、母親の子供に対する愛情は細やかで慈愛に満ちたものであり、この愛が子供の成長には重要である。そして母親が子供を慈しみ育てることは自然である。目先だけに囚われずに、未来の正しい人間を育てていく責任を負っている私たちは、このことも同時に考えておかなければならない。

これらのこともわきまえた上で女性の社会進出を進めていかなければ、本末転倒といったことになりかねない。我が国の社会に沿うような形で、女性の管理職登用を研究・推進していくことが肝要と考える。

アベル・トリュシェ:ブローニュの森

アベル・トリュシェ:ブローニュの森

(005) 良書を読むためには悪書を読まないこと

「良書を読むためには悪書を読まないこと」あたりまえのこだが、これはショウペンハウエル(1788年 ~ 1860年 ドイツの哲学者)が言った言葉。そして次のように言っている。

「読書に際しても心がけは、読まずに済ます技術が重要である。その技術とは、多数の読者がむさぼり読むものに、われ遅れじとばかりに手を出さないこと。」

ついつい、最近話題になった本とか有名人が書いた本とかに、だれでも目を奪われがちになる。
このような本に限って、読みやすくはあるが読んだ後何も残らないことが多い。
良書を選ぶのはむずかしいことである。

写真ーモンマルトルのカフェ

(004) 目標を持たない生活は生きがいが半減する

ジェームス・アレン(作家 1864 ~ 1912)は<原因と結果の法則>でこのように言っている。
『人間を目標に向かわせるパワーは、「自分はそれを達成できる」 という信念から生まれる。
疑いや恐れは、その信念にとって最大の敵である。』

すべての人間にとって目標を持つことは重要であり、そして自分に対して一定の制約を設けることで生きがいを感じられるるように思える。制約があった方がモチベーションも高まるように思う。

10年先20年先の目標も大切であるが、当面の目標を定めてまずは動き出さなければならない。 また歳を経て現役を離れてからも、生きがいを持って晩年を生きるためには、高齢であればあるほど目標を定めて生きることが大切ではなかろうか。

悲しいかな、人間は最後の最後まで努力しないと、生きがいは感じられないもののようである。

1872年頃のラパン・アジル

1872年頃のラパン・アジル

(003) グローバル化と戦争

人間は本来、人と競争する本能を具えている。
学校における成績の競争も、そして社会での競争も自分の手の届かない者との競争はやらないものである。国家間の諍(いさかい)も然り、これが戦争へ結びいて行くこととなる。
数千年にわたって人間は、この本能を制御するすべを知らないまま現在に至っている。

さて、これを制御するにはどうしたら良いだろうか。
人間は自律では制御できないから、他律で制御するしか無いのではないか。
今、IT社会がどんどん進化を遂げようとしている。これに伴い「国家」の意味にも変革を及ぼそうとしている。

言わばグローバル化の進展である。人類はいま歴史的に大きな変革の期にさしかかっているように思える。グローバル化が進み、他国の痛手はそのまま自国の痛手に直結するようになれば、戦争を防止することができる。

世界の国家が互いに深く入り込み、国家の意識が低くなって行くことを意識的に進めて行くことが必要ではなかろうか。 生きるためには、嫌な相手とでも商売をしなければならないのと同じように。

ラパン・アジルの現在 (ここを描いたユトリロの作品は多い。)

ラパン・アジルの現在
(ここを描いたユトリロの作品は多い。)

(002) 病気は人生を歪める

健康なときは、仕事を始めいろいろなことに対して計画を立て前へ進んでいくことができるが、一旦病魔が取り付くと毎日が病気との戦いになってしまう。
老えば、何かと病魔の取り付くことが多くなってくるので、高齢になれば特に特に健康には気を付けなけばならない。

今のところ、まだ私はそのような状況に置かれた経験がないのでよくは分からないが、おそらく病気との戦いだげが、生きる意味に集約されるのではないだろうか。
医学に頼るのも限界があるだろうから、あと宿命と甘受し祈るしか無いのであろうか。

(雪降るラパン・アジル)写真

(雪降るラパン・アジル)写真