(020)歳をとればとるほど、1年が短くなる

多くの人がある一定の年令になると、子供の頃は退屈するほどに感じていた1日の長さを、
短く感じるようになるのではなかろうか。昔(なぜだろう?)と疑問に思い考えてみたことがあった。

「6歳の子供は(6年)生きてきたのだから、1年を(1/6)の感覚で捉える。
60歳の人は(60年)生きてきたのだから、1年を(1/60)の感覚で捉える。
もちろん主観的・心理的なことではあるが、歳を取れば取るほど、この理屈でどんどん
1年・1日を短く感じるようになるものである。」 と、半信半疑ながら勝手にこのように
考えたことがあった。
同じように考えた人がいるのではないだろうか。

最近、過去にこれに関する法則が発表されていたとのことを知った。
(何時頃か、テレビで放映されたらしいので知っている人も多いかもしれないが。)

フランスの哲学者ポール・ジャネ(1823 – 1899)・・・【ジャネの法則】
『人が感じる時間の長さは、自らの年齢に反比例する』というものである。
60歳の人間の10日間が、6歳の子供にとっては1日間に相当することになる。

もちろん心理上の問題であるから科学的には何ら証明はなされていないということではあるが、
むかし自分勝手に解釈していたものが、このように法則として認知されていたことに
安堵の気持ちを持った次第である。

何はともあれ「少年老い易く学成り難し」という故事もあるとおり、たっぷりの時間を
感じ持っていた若い自分にもっと努力しておけばよかったと、いまさらながら
思いいたしている今日このごろである。

ウジェーヌガリエン-Laloue(1854-1941)

ウジェーヌガリエン-Laloue(1854-1941)

(019)死は背後からやってくる

吉田兼好(兼好法師)は『徒然草(第1155段)』でこのようなことを言っている。

〔口語訳〕
死は向こうからこちらへやって来るものと皆思っているが、そうではない、実は背後からやって来る。
沖の干潟にいつ潮が満ちるかと皆ながめているが、実は潮は磯の方から満ちるものだ。

       ————————————————————-
<死は向こうから私をにらんで歩いて来るのではない。私のうちに怠りなく準備されているものだ。
(小林秀雄)>

生あるもの、いずれは死が訪れることは皆分かっているが、いつ訪れるかrは誰にもわからない。
「生まれたときから死への準備が始まっている」言われるように、誰でも無意識のうちに、人知れず
死への準備をしているのであろう。だんだんと年齢を経るにしたがって、その分死への準備が進んで
いくということになるのだろうか。とは言え、それとは関係なしに突然に死が襲ってくることもある。

兼好の語りを聞き、よほどの深い思索がないことには、このような慧眼を持つには至らないので
あろうと思った。この言葉には一旦踏みとどまって考えさせられるところがあるようだ。
同時に、あらためて世の無常を感じさせる言葉でもある。

ウジェーヌガリエン-Laloue(1854-1941)

ウジェーヌガリエン-Laloue(1854-1941)

(018)「電卓」発売から50年!

仕事では日々お世話になっている電卓。日常文具の一つとして家庭でも珍しくもないものであるが、なんと、実は今年が発売から50年という節目の年だという。そんなに年月を経たのだと驚いた。開発当時は自動車を買うくらいの価格だったという夢の最新鋭機器だったようだが、今では基本機能程度の一般電卓は100円ショップでも買える文具品。
もちろん、関数電卓をはじめ、金融電卓、土木測量電卓などと、進化は続いているようである。

(019)100円電卓

普通に個人で日常利用する場合は、携帯・スマホ・パソコンでも電卓は利用できるので、あらためて電卓をひっぱり出す必要もないかもしれないが、どんどん科学が発展しても、昔と変わらず利用できる機器が存続していることに、驚きとともに郷愁を感じながらちょっとした安堵の気持ちを持った次第である。

ウジェーヌガリエン-Laloue(1854-1941)

ウジェーヌガリエン-Laloue(1854-1941)

(017)何故繋がりたい?(SNS をどう捉えるか)

人は人の中でしか生きることが出来ないものであり、「人と繋がりたい」と思う気持ちは、古来からの人間の自然の姿である。現在のようにコンピュータが進化し SNS 全盛の時代、「人と繋がる」というコニュニケーションの形が多様な形をとるようになってきた。

SNS などのサービスがなかった時代、学校や仕事仲間・居住地域、あるいは同好会やサークル活動の集まりが主なコニュニケーションの場であった。基本的に対面のコミュニケーションがベースであった。現在もこれがコミュニケーションの主流であることには変わりない。 これが本来の「繋がる」ということである。ネット上で顔の見えない相手と繋がるということは、『繋がる』のではなくて『交流する』ということになるのだろう。

真の 『繋がる』とは、本来相手の顔や態度を前にして「その場の空気や顔の表情を感じ取りながら交渉を持つこと」を言うのだろうと思う。SNS の場合はそれは出来ないので、単に「交流の場を持つ」と言うにすぎない。とは言え人間は常に自己表現の欲求を持つものであり、SNS は「交流の場」を持つものとしてはその有効な手段と考える。

人と繋がりたい気持ちの裏には、孤独で居たくないという心理も働いているだろうが、簡単に孤独を解消しようとするのは考えものである。「孤独」は人間存在の一つの重要なファクターであり、「孤独」の中だからこそ真の人間の在りようを感じ取ったり、人のありがたさを、静かにじっくりと感じ取ったりすることができるのではないだろうか。

大衆の中に身を置く安心感も手伝って、毎日毎日 SNSの場に身を置いていないと落ち着かないという人もいるようである。それが良くないというわけではないが SNS は 「繋がる」のではなく、あくまでも「交流の場」であることを念頭に置いて利用しないと、互いの「繋がる」意識の違いから、トラブルを抱え込んでしまうことにもなるであろう。

SNS はIT技術を駆使したグローバル社会を代表する仕組みの一つと行っても良いだろう。これらのコミュニケーションツールにより世界中の人々が交流を持ち、理解し合いながら紛争のない世界を作り上げることが出来ればと念じたい。

ウジェーヌガリエン-Laloue(1854-1941)

ウジェーヌガリエン-Laloue(1854-1941)

(016)現代人は「人工音」無しでは暮していけない

現代社会において、文明の利器と言われるものを使わずに生活することは極めてむずかしいことである。車もテレビもラジオもパソコンも携帯も無い暮らしを想像して見るに、何と静寂な不思議な世界が頭の中に現出してくることであろう。

都会にあっては、自分だけがこのような機器を外してしまっても、一歩外に出れば、否部屋の中に居てさえも、これらが発する「人工音」に取り囲まれて生活している。このような「人工音」が体の一部になっているような気さえする。

本を読む時にも何か「音」が無いと頭に入らない。本を読む時、私はほとんど音楽を聞きながら読んでいる。(余談だが、読書時はバッハが一番適していると思う。)

最近はカフェで本を読んだり、学生が勉強している姿をよく見かける。あらたまって勉強机で読むよりも、よほど頭に入るのであろう。そんな時、そこに発せられる様々な雑音が無意識のまま脳に心地よく聴こえているに違いない。

これからずぅ~と先々まで、我々は「人工音」の無い世界で生活することはありえないのだろうか。これは人間の暮しとして異常なことだろうか、普通のことなのだろうか。 考えてみてもどうなることでもないが・・・

ウジェーヌガリエン-Laloue(1854-1941)

ウジェーヌガリエン-Laloue(1854-1941)